増田先生を偲ぶ

増田先生との出会い、そのいきさつは人それぞれ。増田経済研究所の社員、スタッフに限っても10年以上のつき合いを重ねた人から、ごく最近知り合った人まで各人各様です。「仕事に厳しい人」、という印象だけでは推し測れないエピソードが、関係者それぞれの胸に去来します。先生との思い出は、時間が経過しても決して色あせることがないでしょう。

episode 1先生の教えを守り、精進することを誓う!経済評論家 杉村富生

別れは悲しいですね。まして、それが永遠の場合には・・・。人は皆、その現実をなかなか認めようとしません。しかし、増田徳太郎先生の生き様、強烈な個性、心は投資の世界に住む人々の間に生き続けることでしょう。けっして消え去ることはありません。

増田先生との接点は、2009年以降の短い期間でした。だけど、先生との関係の充実ぶりは10年、20年、30年を濃縮したものに匹敵します。
ダメですよ 油っこいものは・・・
常に先生は、「投資家の皆さんが損をしないように、儲かるように」と念じておられました。「そのためにはどうすればいいか」と。これはご自身の“失敗の経験”に基づくものでしょう。
そう、実践主義は最強なのです。

それに、あの年齢(失礼)でのインターネット(チャートソフト開発)の取り組み、事業展開、頭脳の柔軟性にはただただ頭が下がります。その行動力、厳しさは、敬服の一語しかありません。

私は、この世界に身を投じて46年になります。まあ、長ければいいというものではありませんが・・・。この間、いろいろな人々に教えを受け、かつバックアップを頂きました。特に、是川銀蔵先生、吉田虎弾先生、本多静六先生(あくまでも著書を通じて)、ヤシカ創業者の牛山善政さんなどは、私の人生観に大きな影響を与えました。もちろん、増田先生もそうです。

社員の皆さん(?)とは違って、増田先生を怖いと思ったことはありません。いつも穏やかでした。ただ、怒られたことは何度もあります。

それは食べ物のことです。私は油っこいものが大好きなのです。「杉村先生、こんなもの食べちゃダメですよ」。しかし、そう言われていたのに増田先生とは、体にやさしいといわれる蕎麦屋、寿司屋には一度も行ったことがありません。

油っこい天ぷら、ステーキ、中華などのお店ではよくご馳走になりましたが・・・。もっとも、ご本人はあまり食べておられませんでしたね。

ともあれ、私は先生の教えを守り、健康に留意し、引き続いて「個人投資家の立場に立って!」をモットーに精進したいと考えています。深謝合掌。

episode 2火曜の朝の緊張感マーケット・カタリスト 櫻井 英明

週に一度。毎週火曜の前場、東京MXテレビで放送されている「東京マーケットワイド」のゲストで、増田先生にご登場いただいていました。いつも、増田経済研究所の澤部さんとご一緒にお見えになられていましたが、事前の打ち合わせから真剣勝負。

増田足を見ながら「アレもコレも」と、矢継ぎ早にシナリオを作る姿勢は忘れることができません。というか、澤部さんの緊張感がこちらに乗り移ってくるような錯覚もしましたから、強烈な存在感です。
投資家の救いたいのです
ただ番組はナマ放送。カメラは3台あるのですが、増田先生は時間とともに力が入ってきて、身を乗り出して説明されるので、画面から飛び出てしまうことが日常的な光景でした。

しかも、わずか15分で、迷っている投資家さんに多くのことを伝えようとされる増田先生でしたから、時間通りに終えることにキャスターとして四苦八苦したことが思い出されます。

相場の悪いときは、「こういうときの個人投資家は悩むんだよ」。相場の良いときは「良かったですね」。そこらの評論家や市場関係者とは違って他人ごとのようなシラッとした言葉ではなく、親身になって身を乗り出して説明される姿には感銘を受けました。

ある時、「日経ミニ先物の夜間取引にも対応できるシステムを作ったから、夜中の3時まで寝ることができないんだよ」と仰っていましたが、とても嬉しそうな笑顔でした。

とはいえ、火曜日は増田先生にお会いするので朝から緊張。ご出演が終わり、先生が帰られた後にホッとした記憶ばかりが残っています。数多くのゲストにおいでいただいていますが、15分間すべてを、アタマ全回転で対応しなければならなかったのは増田先生だけです。強烈な存在感の「巨人」でした。合掌。

episode 3ネット時代到来の“予感”が“確信”へ増田経済研究所 奥原 久範

「インターネットの世界は凄い。将来性がある。」

増田先生がこのことを強烈に実感されたのは、株式投資とはまったく無関係の、ある“出来事”だった。

2002年夏の日曜日。新しい物好きの増田先生が、壁掛けのプラズマテレビの購入を思い立ち、社長(黎子夫人)と秋葉原の家電量販店に出掛けて、得意の話術で店頭価格130万円のものを100万円まで値切って戻ってこられた。
買い物というのはだね・・・
翌朝、鼻高々に、秋葉原での商談の成果を社員に語った増田先生。ところが、それを聞いた若手社員が、「先生、ちょっと待って下さい。ネットでもっと安い店を探しますから。」

その若い技術者は、わずか数分で80万円で売っているネットショップを探し出してしまった。このため、前日の“成果”はあえなくキャンセルとなった。その時の増田先生の驚愕と悔しさに満ちた表情は、今でも忘れられない。

当時といえば、ITバブルは崩壊しており、インターネットというツールがすでに市民権を得ていた時代。増田先生が、「チャートソフトを媒介にした投資顧問業」という新たなビジネスモデルを考えついたことは斬新で、先見の明があったことは疑う余地もない。が、当時の先生にしてみれば、このビジネスがどこまで伸びるかは未知数で、手探りの部分もあったはず。

チャートソフトとネットショッピングの両者の間に何ら接点もないが、この時、増田先生はネットビジネスの無限の可能性を確信したようだった。

この一件があって以降、当社の商品開発は一気に加速した。2002年当時のソフトは、前日までの終値しか表示されない旧式のものだったが(毎晩、最新のデータをダウンロード)、2003年春には「お茶の間教室」が始まり、これに伴ってお茶の間専用WEBソフトをリリース、さらに2004年にはWEB版ソフトへと完全移行した。時は流れ、2年前からは「テレビQ&A」もスタートしている。

世の中広しと言えども、当社の規模でこれほどインターネットを活用し、その恩恵を受けている会社は、それほどないだろう。

現在、弊社の5階に掛かっている「80万円のプラズマテレビ」を見るたびに、この十数年の歩みと先生のお姿をしみじみ思う。

episode 4衝撃的だった先生との出会い増田経済研究所 角南則好

「人生は縁」とは、常々、先生が仰っていたことでしたが、縁とはまことに不思議なものです。

私と先生との出会いは、今から10年以上も前、先生の講演会のビデオ撮影を任されたことでした。正直、株のことなど何も知らなかった私は、講演会の中身はほとんど聞いていませんでした。というよりも、聞いていてもチンプンカンプンでした。
すごいっ!こんなにも熱くなれるなんて・・・
ところが、ひとつ、よく覚えているのは、先生が撮影した画面を見ながら、「もう少し綺麗に撮れないのか」とか、「ピンクの滲みは何とかならないのか」といろいろなことを仰っていたことです。

当時のビデオカメラの精度と撮影環境から言えば、到底無理と言えば無理な話なのですが、それでも先生は引き下がりませんでした。普通なら、こちらも「うるさい爺さんだな」くらいで終わりそうなものですが、先生があまりにしつこく(!)、そして真剣に言われるのを聞いているうちに、嫌な思いをするどころか、不思議なことに大いに感激させられたのをよく覚えています。

自分の作った増田足というものをとても大切にしている、その純粋な気持ちがひしひしと伝わってきたからです。「自分の仕事を大切にする」。これが先生から最初に教えられたことでした。その後、株のことなど、いろいろ教えて頂きましたが、これがすべての基本だったように思います。

先生、長い間、ご苦労様でした。そして有難うございました。

episode 5本当の優しさは厳しさの中にある増田経済研究所 千葉 聡

仕事が好きで好きで、相場が好きで好きで、人と話をするのも大好き。そんな先生でした。好きなことにこれほど情熱を掛けた人生は、爽快です。

先生は自分のことは二の次で、会員の方と従業員、家族のことばかり考えていました。享年86。世間では長生きの部類なのかもしれません。でもまだまだ必要とされる人でした。増田先生が亡くなって誰もが感じるのは、「忘れられない人」ということでしょう。人は死んでしまえば時間とともに忘れられていくものですが、増田先生は、多くの人に強烈な印象を残しました。そして、増田足を残し、多くの弟子を残しました。
お子さまは……どちらに?
いつまでも人の心に残る人は、幸せです。他の人のことは忘れても増田先生のことは、みんなが覚えています。

先生は一度も立ち止まることなく、最後まで現役を貫きました。社員は誰もが何度も叱られ、厳しい言葉を浴びましたが、先生の心の奥底にある優しさや、たまに見せる笑顔が大好きでした。「上辺でない本当の優しさは、厳しさの中にしかない」「相手の事を真剣に考え抜いてこそ、厳しく接することができる」。そんなことを我々は学びました。

先生のような真似は社員の誰もができませんが、先生の教えはそれぞれの胸の中にあります。

先生! 極楽でいいお席は確保できましたか。講演会ではいつも、「私は極楽に行くために、こうして皆さんの前でお話しているんです。何人の人を救ったかで極楽の席の良し悪しが決まる。大勢の人を救えば、それだけいい席に座れるんです。私は特等席に座りたいんですよ(笑)」などと、よくおっしゃっていました。

以下に、増田先生の言葉と思い出を振り返ってみます。

◎お天道様が見ている
「人の見てないところでも全力をつくせ。お天道様が見ている」。「仕事の評価は自分でするな、周りの人がしてくれる」。また、「ごまかす、ばれなければいいという人生を過ごすな」というようなことを、よくおっしゃっていました。自分を律する、いい言葉だなと思いながら聞いていました。

◎毎日、おいしいものを食べて、明日があればいい
先生はおいしい物が好きで、食通でした。一緒に外で食事をしていても、まずい物が出てくると機嫌が悪くなります。「こんな見当違いな物を出すな」と店員を叱っていたのが印象的です。また、「明日があればいい」というのは、夢があれば幸せだという意味です。夢と希望があれば人間幸せです。先生は夢いっぱいの人生を送りました。亡くなる前日まで働き、最後の日も増田足の夢を語っていました。

◎言い訳をするな
とにかく、言い訳を聞くことが大嫌いでした。「他の仕事が忙しくて」とか、いい加減な仕事振りを言い訳で逃げようとすると、とても怒ります。また、納得のいかない仕事に対する追求はとても細かく、「それで、それから、どうして」と責められました。先生の前では、どんな言い逃れもできませんでした。「情熱、努力、知恵を持って仕事をすれば、たいていのことは解決する――これが口癖でした。

◎結婚しろ、子供は3人つくれ
先生は、少子高齢化の日本を憂いていました。夫婦2人で、子供が2人でも同数、3人生まなければ日本人は減っていく。だから、「子供はたくさん育ててください」とよくおっしゃっていました。 先生は子供が大好きで、社員の子供が土曜日などに遊びに来ると、我々には見せてくれたこともないような満面の笑みで子供を可愛がっていました。そして、お小遣いもたっぷりくれました。

◎大人1人子供2人
ある時、先生と社員2人で、ファミレスに行った時のことです。あいにく満席でした。「予約の用紙にご記入下さい」と店員に言われたので、先生が記入したのですが、店員が、「あれ、お子様は?」と言うではありませんか。我々はきょとんとしていたのですが、なんと先生は予約の用紙に、「大人1人、子供2人」と記入していたのです。先生にとって我々は、子供なんでしょう。50歳手前のおじさん二人は、笑いをかみ殺すのに必死でした。

◎背中にバカと書いてあるぞ
仕事が軌道に乗ると誰しも自信を持ち、「この仕事の成果は俺のお陰だ」などと自惚れるものですが、先生は、そういった態度や言動を取ると厳しく叱りました。「調子に乗るな。もっと謙虚に、周りに感謝しながら仕事をしなさい」ということです。「お前さんの背中にバカと書いてあっても、誰も何も言ってくれないのだよ。だから、わしが言ってやっているんだ」と叱られたものです。しかし、叱られた本人には、それはそれで暖かい言葉に聞こえました。

episode 6先生との不思議な「御縁」増田経済研究所 三村 洋史

増田足に入門し、増田先生の弟子として仕えた約7年の歳月。

先生には大変お世話になりましたが、その過ぎし日を回顧するには充分な「日柄整理」がついていないというのが、偽らざる真情です。

ただ、今でも不思議に思うのは、先生との「御縁」です。先生は、生前、人と人との縁を非常に大切にしておられました。
ご縁に感謝です
私事で恐縮ですが、出身の茨城県はかつて水戸藩の領地で、私が通学した中学校の裏山は、水戸藩の累代の墓所であるなど(光圀公のお墓もあります)、水戸徳川家には歴史的な親近感を抱いていました。そして、幕末、江戸幕府が海防意識の高まりとともに水戸藩に命じ、藩主・徳川斉昭の手によって創設された造船所が、先生の定年退職された石川島播磨の起源に他なりません。

また、石川島播磨社長から東芝社長に転じ、同社の再建に辣腕をふるっただけでなく、中曽根政権時の第二次臨調において行政改革にも尽力した土光敏夫氏とも、私は少なからぬ御縁がありました。彼の呼びかけで制定された「土光杯全日本学生弁論大会」というものがあり、私は大学4年時に「ニッポン放送杯」を受賞するという幸運に恵まれました。

それ以来、土光氏に関する著作を読むなど親しんできましたので、先生が常日頃口にされていた「Plan-Do-See」をはじめとする、石川島に流れる経営の精神を身近に学ぶことができたことは大変幸運だったという他ありません。

先生の場合、土光氏よりも、その後輩に当たる永野重雄氏や真藤恒氏とご親交が深いようでしたが、大きな組織で働いた経験に乏しい私にとって、先生が仕事の合間や食事の際に話された石川島時代の数々のエピソードは、組織を考える上で大変貴重な教訓になっています。ただ、悲しいことですが、先生は晩年、IHIと社名を変更し、豊洲にひっこんでしまった古巣の現状を非常に嘆いておられました。

話は変わりますが、先生は、生前、研究所の前に立ちそびえる総持寺に毎朝参拝されておりました。私も大いに感化され、先生には到底及びませんが、今でも週1回程度、参拝しています。先生は、研究所の存続と発展は、総持寺のパワーによって守られている面もあるからではないか、と真顔でよく話されていました。先生は、単に仕事に没入するのではなく、一定の信仰心もお持ちのようでした。「ビジネスと信仰」といった大げさな話でないのですが、土光氏のケースとも重なるだけに、戦後の経済人を考える上で、非常に興味深いテーマです。

また、先生はチャートの研究はいうまでもなく、大変な勉強家でした。グローバルな世界情勢の推移を曇り無き目で俯瞰するために、大量の本を購入しては熟読され、その中で興味を引いたものは勧めてもくれました。病魔と戦っておられた時にも、その姿勢は堅持しておられ、脱帽する思いでした。先生の知的関心は広範かつ深淵であり、時には物理学にも及びました。そこから「四次元」の着想を得たと聞いています。

いずれにしましても、先生から学んだことは数多く、先生から伝承したものをいかに後世に伝え、発展させていくのか、先生から課せられた「宿題」と受け止めています。

episode 7ガンと闘いながら使命を全うされた先生増田経済研究所 中山和子

2013年5月2日の営業会議で、「わしは3年もたないかもしれないよ」と先生は仰いました。 その日の会議でも、いつもと同じように、さまざまな提案を打ち出されながら、全員に厳しい叱咤激励がありました。

私は、連休明けからミニ先物の夜勤をするメンバーに加わり、先生から直接教えて頂ける事になっていました。退社時の挨拶で、「先生、来週からよろしくお願いします」と言った私に、先生は「おー!」と言って右手を上げ、笑顔で頷いて下さいました。
増田足の良さを伝えていきます
先生との出会いは、2007年の4月、面接の時です。会社の事や増田足、株の事を熱く語る先生に感動し、帰宅してから主人に、80歳ですごい方だったと話し、「先生について行けば間違いない!」と入会する時の、増田足の会員の皆様と同じような気持ちになっていました。

先生の生き方は、凡人の私には到底考えられない事ばかりでした。「傷ついた投資家を救いたい」の一心で、増田足を広める為、その有効性を一生懸命語っていらっしゃいました。

講演を聞いていても、先生の説明が一番分かりやすく的確で、常にわが社のトップセールスマンでした。また、増田足をより良くしようと、四六時中増田足の事を考えておられました。

ガンの宣告を受けてからも、今まで以上に仕事に情熱を燃やし、「わしには時間がないんだ!」とあらゆる手を打とうとされていました。しかも、ガンの痛みに耐えながらです。

ここまでできるのは、自分の使命を自覚しているからだと思いました。このような素晴らしい先生と6年間同じ会社にいられた事が、私にとって大きな財産になりました。
これから、ご恩返しができるとするなら、先生が残してくださった世界一の増田足を、もっとたくさんの個人投資家に知ってもらう為に行動するしかないと思っています。

3年と言いながら、3日後に霊山に旅立たれた先生。最後の挨拶で、「おー」と手を挙げて微笑んで下さった姿が、今では「頼むよ」と仰っていたように思えてなりません。

episode 8毎朝4時起き、お参り行脚増田経済研究所 小関喜弘

当研究所のすぐ前に曹洞宗大本山の総持寺という大きなお寺があります。毎日4時に起きて、そこにお参りに行くが先生の日課でした。

「お客様が増田足で儲かりますように」「みんなが健康で過ごせるように」などなど、いろんなことを総持寺にお願いするため、暗いうちから7~8箇所の賽銭箱に小銭を入れながら、毎朝お参りしていました。
まさに継続は力なり・・・
社員が入院した際も、「総持寺でよくお願いしたからもう大丈夫だ」などと声を掛けてもらいました。

「毎日、早起きしてお参りする」と決めても、それを守り通すことは並みの人間ではできません。私も含めて会社ではみんなよく怒られましたが、先生が会員様や我々のために毎日お祈りしていることを知っていたので、いつも前向きに頑張ってこられました。これが、自分の心の原動力になっているのだと思います。

episode 9増田足を世界の標準チャートに増田経済研究所 渡辺 貴英

2008年8月、増田先生との出会いは、先生が81歳の時でした。全身に活力が漲り、パッと見、60代後半くらいに見えました。

この時から遡ること2年前、実父(82歳)を亡くした私にとって、父とは顔はもちろん性格も違う先生でしたが、新しい父親ができたとうれしく感じたのを覚えています。
世界のスタンダード化はまかせたヨ
増田先生は常々、

1.人との出会いを大切に

2.仕事はロジックで、その他は情をもって

3.美味しいものが食べられて、明日があればそれで十分

と口にし、それを実践していました。

会社が大きくなるのと比例して、自宅は徐々に徐々に会社に占領され、プライベート・スペースは夫婦2人で6畳一間だけ。

それでも、「美味しいものが食べられて夢を持って仕事ができること」で充分満たされているのを肌で感じました。

実は、私は社会人になった22歳の頃、50歳まで必死に働いて生涯必要なお金の蓄えを済ませ、早々にリタイヤして南の島のプライベートビーチで、悠々自適のシルバーライフを夢見ていました。

すでに私は50代になってしまいましたが、86歳にもかかわらず亡くなる前日まで、現役として猛烈に仕事に打ち込む先生の真摯な姿を間近に見せられ、私は大きな衝撃を受けました。これぞ、まさに無言の教育です。

そんな私の今の夢は、「増田足を日本の、そして世界の標準チャートにすること」です。

生前、先生にそれを話した時、「そのあんたの夢に向かってがんばりなさい」と目を細めて言ってくださったのを忘れる事が出来ません。

そして、もうひとつ。「わしが死ななきゃ、世間は増田足を認めてくれないだろう」と言っておられた先生の無念を、皆で晴らそうではありませんか。

増田足は唯一無二、世界に通用する価値がある先生の魂なのですから。

episode 10先生の「心」を後世に伝えるために増田経済研究所 澤部 潔

私は、以前、日本証券新聞という株の専門紙で、編集の仕事に携わっていました。

増田先生との出会いは、もう10年以上前、取材を通じてでしたが、お目にかかるたびに、増田チャートの素晴らしさはもちろんのこと、顧客と向き合う先生の姿勢に惚れ込み、いつの間にか、増田経済の門を叩いていました。
な、何でも…ご相談ください
商売柄、投資に関わる方とは、これまで、数多く関わってきました。しかし、先生ほど熱い思いと信念を持って、個人投資家と向き合っている方には、終ぞ、お目にかかることはありませんでした。

先生との思い出といえば、毎週火曜日、MXテレビ「東京マーケットワイド」に出演するため、私が運転する車でご一緒したことです。行き帰りの車内では、先生の考え方をはじめ、いろいろな話をお聞きすることができました。

今後も、先生の教えである「傷ついた個人投資家を救いたい」をモットーに、全社一丸となって顧客サービスに努めてまいります。

増田経済では、「土曜講座」などのセミナーをはじめ、「テレビQ&A」、「お尋ね箱」と様々なチャネルで、顧客と向き合っています。株式投資に関することで、お困りのことがあれば、なんなりとご相談ください。全力で、お応えしてまいります。

投資家の声に真摯に対応していくことこそが、先生の「心」を後世に伝えていくことに繋がるのですから。

episode 11純粋さ、外連味(ケレンミ)のなさ増田経済研究所 長浜 英信

先生にはよく叱られたものですが、今にして振り返りますと、「本当に純粋に、良くしよう」とする思いのあまりだったのがよく解ります。

当社には「売買サイン」というサービスがありますが、先生はこのサービスへの注力を惜しまない方でした。様々なテクニカル的条件を施し、コンピューターが選んでくる銘柄を、我々スタッフが選りすぐるという作業を行なうわけですが、先生はいつも「外れたサイン」を我々に突きつけてきたものです。
当たってあたりまえ 外したらそりゃ怒るでしょ
「何故、ココに買いサインなのか」と、烈火の勢いで我々を叱咤するとともに、より良いヒントをそれとなくくれたものでした。もっとも、その時の怒りようといったら・・・とても素直に聞けるような雰囲気ではありません(笑)。我々は、いつも叱られてばかりくらいに思っていたのですが・・・。

そんなある日のこと、営業のほうから、「当社のスタッフ各人には、どうしてもチャートを読めるようになって欲しいとの気持ちが強くて、つい声を荒げてしまうんだ」といった、先生の本音の言葉を伝え聞いた時には、「それにしても・・・」とは思ったものの(笑)、この歳にして先生の「親心」というものをしみじみ感じたものです。

さてそれから数日後、我々スタッフで先生に、「サインを付けたその日に、是非ご指導を」と申し入れたことがありました。先生は間髪入れずに、「その日じゃぁ、外れるかどうか分からないだろ! わしは、外れたサインを叱るんだ」と、ペロリと舌を出して、何とも言えない笑顔を作ってくれましたね(笑)。「外連味(ケレンミ)がない」とは、こういうことを言うのでしょうね(笑)。

episode 12いつか先生とステーキハウスで増田経済研究所 坂口隆信

「ニュースは何かないのか!」と怒号が響き渡る。それが、増田先生と日常交わした会話の中で、とくに思い出に残っている言葉だ。

入社したときから「文章力に問題あり」といつも先生から指摘され、分かりやすく直す、その繰り返しだった。でも、今ではそのときの指導が私のスタイルを作り上げてくれて、感謝の言葉もないくらい本当にありがたかった。
どう…ニュースのネタはあったかね?
先生が病院に入院したとき、看病する大役を預かった時間は、私の一生の宝物。ひとつだけ、先生との約束を果たせなかったことがある。それは、入院先の病院で先生に、「退院したら鶴見のステーキハウスに行こう」と言ってもらったこと。この約束を果たせなかったことが私の心残りでもあり、この件だけは神様に文句を言いたいくらいだ。

だからいつかひとりで、先生がとなりにいるとイメージしながら、そのステーキハウスに足を運びたい。なぜなら、そこに先生が約束を果たしに来てくれそうな気がするから。ありがとうございました先生。いつまでも社員、私のことを見守り続けてください。

episode 13一番駆けの武者増田経済研究所 松川行雄

企業を起こし、需要を喚起できる商品を開発し、資金と人員を動員し、経営していくということは並大抵のことではありません。私自身も体験上、その難しさが身にしみています。

増田徳太郎先生のやり方は、率先垂範そのものでした。仕事では大変厳しい取り組み方をされていましたし、ご自身と同じレベルを所員に要求されました。一方で、ついてこられないからといって見捨てることはありませんでした。それは、「働ける者がほかの人の分まで働く」という言葉によく表されていました。先生自ら、それを身をもって示されていました。
わしに続けーッ!
私も長いこと、上司やトップというものが範を示せば、皆ついてくるものだ、と思っていました。しかし、話はそう簡単ではありません。私は結局、最後まで、自分についてくる人を育てることが出来ませんでした。先生も、同じような意味で、「わしは、経営者としては失敗者だ」と口癖のように言っておられたのを思い出します。しかし、先生は本当に失敗者だったのでしょうか。

私は、このような先生を「一番駆けの武者」だと思いました。一人が十人になり、十人が百人になり、やがて千万人となって世の中を動かす。その最初に走り抜けていく武者は、当初、無謀にしか見えません。しかし、彼には、世の中の風景というものが、ちょっと指で動かせば一変することを分かっているのです。

私は、先生のご存命中、わずか3カ月しかご一緒する機会がありませんでした。それだけに、残された言葉もさることながら、その生き様そのもので、それまでの私の迷いを断ち切ってくれたと思っています。

私は、先生が亡くなったあと、「わしに続け」という声が聞こえたような気がしています。ある意味、先生がその死を以って、最後の言葉を伝えたのだと思っています。私が先生のあとに続こうと心に決めたのは、まさに先生の「壮烈な戦死」といってもいい最後によってでした。

先生は、経営者としても決して失敗者ではありません。私が続くのですから。そして、私と同じような思いを、その死に際して胸に刻んだ所員は、ほかにもいるからです。私は、一番駆けの武者に続く者でありたい。

episode 14「明るく、楽しく、分かりやすく」増田経済研究所 石垣 智

「もっと頭を使って考え抜きなさい」「ちょっと考える努力が足りないよ、あんたは」・・・。増田先生から、私が常日頃言われていたことである。さらに、「楽に仕事をしようとしてはいけない。そんなクセがついたら成長はしないし、すぐボケちゃうぞ」と先生はたたみ掛ける。

私の本業は研究所の販促物や印刷物の企画・編集なのだが、増田経済研究所がより成長・発展するための提案・提言、その他補助業務まで、先生からは経験を活かしていろいろな仕事をするようにと指示されてきた。その都度、「どんな仕事でも顧客目線で考えなさい。会社の都合、自分の都合を第一に物事を進めては絶対にダメだ」と言われてきたことが脳裏に焼きついている。
いるでしょ、ここに…
そして、「明るく、楽しく、分かりやすく」やるようにとも。これは何も販促物や印刷物だけにとどまらず、会議や打ち合わせなどで話すときにも当てはまる。

増田先生とは依頼された本の編集がきっかけで、50歳を超えてからお世話になるようになった。先生からはまるで小さな子供が叱られるように、延々と説教されたことが度々ある。それは仕事に関することだけでなく、話し方や態度、体調管理についてまで、多岐にわたる。

先生は仕事には妥協を許さず怖かったが、叱責されたあとなどよく昼ごはんをご馳走になった。コップ一杯のビールとギョーザを、おいしそうに召し上がっておられた姿が忘れられない。

食事中は仕事のときとは別人のように、顔がほころぶ。「石垣さん、お父さんは?」と聞かれたことがある。私の父親はくしくも、先生と同じ1926(大正15)年の8月生まれであったが、若くして亡くなっている。「父はだいぶ前に死んでおりません」と答えると、先生は口元に笑みを浮かべながら、こう言われた。「いるでしょ、ここに」・・・。

このとき、さまざまな思いがこみ上げるとともに、先生に対するそれまでの反発心も、潮が引くように消え去ったのだった。

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